メガネとマトリックスとデカルト
こんにちは。
今回は、前回からのマトリックスとデカルトの話の続きです。
デカルトは夢の世界でも現実の世界でも認められる真理をさぐっていこうとしたという話でした。
一般的なものが認められる
ここでデカルトは具体的に私が手や足をもっていることを否定し、その代わりにこれらの一般的なもの手や頭や身体全体を持っていることは存在しているのでは、と考えます。確かに片足を失った人が夢の世界では両足で立っていることはありえますし、具体的には存在していなくてもそもそも足とか身体とかそういう一般的なものがなければ夢の中でも現実世界の中でも存在することすらできませんよね。
それと同じように、デカルトは物体の性質一般や物体の持つひろがり、量、大きさや数、持続や場所といった物体の本質についての存在を認めようとします。だからこうした一般的なことしか扱わない数学や物理学はほかのもっと複雑なものを基盤とする医学や自然学よりもはるかに確からしいとデカルトは述べます。
徹底した懐疑主義者、デカルト
あらゆるものを疑っていく哲学者のことを「懐疑論者」といいますが一般的な懐疑論者はこの時点で疑うことをやめることが多いです。
ところが徹底的な懐疑を貫こうとするデカルトはさらに懐疑を進めていきます。
確かだと思われている数学について、例えば1+1=2といった明確な真理は本当に真だといえるのだろうか?
画像引用元(Wikipedia)
デカルトはここまで懐疑の領域を拡げます。
デカルトは、ここで全てのことをできる神がいると想定します。そこで、その神はひょっとしたら私が1+1を計算するたびごとに間違えるように仕向けることができるのではないか疑います。(後にこの懐疑は形而上学的なこじつけであるし神はこのような間違いをするよう仕向ける存在ではないことが証明されていきます。)
そのためこうした極めて明確に真だとだれもが認めるような数学的真理をもまた偽として斥けてしまうのです。
今、私たちは混沌とした暗闇の中にいる
ここでデカルトはほぼ全てのものを疑いきっています。
感覚、感覚器官、私たちがみる物質や私たちが持っている記憶、そして私たちの手足といった身体、一般的な木や机といった物質の本性そしてピタゴラスの定理や四則計算などの物理的、数学的真理。
こうした一切のものが今目の前からなくなってしまったと想定してみてください。
デカルトの懐疑は徹底され、今私たちはあたかも暗闇の中にいるような状態にまで陥ってしまいます。
感覚はもはや何も働かず、私の身体自身もなくなって、周りにある物体などももはや存在していないような暗闇の中です。
デカルトが祭られているパンテオン(パリ)
画像引用元(Wekipedia)
「我思う、ゆえにわれあり」
ここでデカルトはひとつの跳躍をなしとげます。
デカルトは、この私自身が何ものでもないのではないかという考えに反論します。
もし私がなにものでもなかったとしたらどうして私が私自身に説得できるのだろうか。
もし何か悪霊のようなものがいて私が常に誤るように仕向けられているとしても、私があることなしにはそのように仕向けることができないのではないか。
こうしてデカルトは「私はある、私は存在する」ということが言えるはずだと結論付けます。
ここにおいて私というものの存在がはっきりとデカルトの中には見出されることになります。
その後、デカルトはこの私とは目に見える顔や手といった物体をもつものとしての私ではなく、ただ考えるものとしての私であると結論付けます。
こうした意味においてデカルトは「私は考えるゆえに我あり」という有名な命題を導き出すのです。
マトリックス、再び
マトリックスでいえば、仮に私が夢の世界にずっといたとしても、あるいは主人公ネオのように薬を飲んで本当の世界に行ったとしても、この私が考えている限り、私は存在している、ということは確実なことなのです。
デカルトに言わせれば、自分で考えることのできないものはその時点でもはや存在しているとは言えないので、マトリックスの現実世界でカプセルに閉じ込められている人間は主人公達とは違いもはや存在していないという事になってしまいます。
こうしたところから、デカルトが人間の心と体は二つに分離されているという「心身二元論」という考えをもっていることが明らかです。
マトリックスの主人公、ネオのメガネ
引用元(Matrix Eyewear)
デカルトの今後
以上が前回から続くデカルトについてのお話でしたが、デカルトはその後、神の存在とその神が善良であるということを証明します。
その後、物体の存在など、懐疑によって偽としていったものを次々と確かなものとして認めて行くという作業を行っていきます。
そして二つにばらばらになっている心と体をどのように関係づけていくか、これが彼の今後の課題となるのです。
今回お話した議論はデカルトの主著『省察』(中公クラシックス)の中に詳細に書かれております。
伊達メガネをかけて哲学のことを語れるとカッコよく見られますよ。