名前を冠したアイウェアブランドも生まれるアーティスト「John Lennon(ジョンレノン)」の歴史をご紹介!

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ジョン・レノンといえば、知らない人はいないの程の伝説の世界的グループ、ビートルズのリーダーであり、ソロとしても平和活動家としても活躍した稀代のミュージシャン。彼の作った曲はメディアに流れない日はなく、時代を超えて人々に支持されているアーティストです。今回はそんなジョン・レノンの歴史に迫ってみたいと思います!

目次

子どもの頃のトラウマとポールとの出会い

イギリス・リヴァプールでジョン・レノンが生まれたのは、第二次大戦下の1940年10月9日のこと。ジョンが生まれたとき、父親のフレッドは航海中で不在、母親のジュリアは別の男性と暮らしていたため、ジョンは叔母夫妻に育てられます。ところがジョンが5歳の時、行方不明だったフレッドが突然姿を現し引き取ろうとしますが、ジュリアはそれを認めません。

「父さんと母さんとどちらを選ぶ?」というフレッドの問いかけにジョンはジュリアを選びますが、ジョンが母親と一緒に暮らすことはありませんでした。このことは、後々までジョンの心にトラウマとなって残ることになります。

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ジョンが14歳の時、エルヴィス・プレスリーがデビュー。ジョンはラジオから流れてくるエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」に衝撃を受け、ロックへ傾倒していきます。念願のギターを手にしたジョンは、ファッションもエルヴィスに影響を受けて髪型をリーゼントにして大きな襟のシャツを着るなど、当時でいうところのテディボーイ(不良少年)になっていきました。

そしてハイスクールの友人とバンド「クオリーメン」を結成。教会のバザーで行なったライヴでステージを観に来ていたポール・マッカートニーと出会い、彼をバンドに迎え入れることになります。

ジョンが17歳の夏、母ジュリアが死去。この時にジョンの心の支えとなったのは、すでに癌で母親を亡くしていたポールでした。ふたりはギターを抱えて向かい合い、オリジナル曲を一緒に作曲したりします。これが後に史上最強のソングライティング・チームと呼ばれる「レノン=マッカートニー」の誕生でした。

ビートルズ誕生とデビュー、快進撃

この頃、ポールの勧めでジョージ・ハリスンが加入。クオリーメンはますます音楽レベルがアップしていきますが、これについていけなくなったメンバーが次々と辞める自体に。ベーシストとドラマー不在のまま活動を続け、アートスクールに進んだジョンが出会った親友、スチュアート・サトクリフがようやくベーシストとして加わります。

ジョンとスチュアートにより「ビートルズ」と命名されたバンドは、「シルヴァー・ビートルズ」などと名前を変えつつも、いくつかのオーディションを受け、バック・バンドの仕事などをこなしていました。ドイツのハンブルクでライヴの仕事の為にドラマーのピート・ベストが加入。その後、スチュアートが抜けて4人編成となったビートルズは、地元リヴァプールのキャヴァーン・クラブですさまじい人気を誇るようになっていました。

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マネージャーであるエプスタインの奔走により、ビートルズは1962年「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビュー。ドラマーだったピートが技術的な理由からデビュー時に解任され、リンゴ・スターが新たなドラマーとして加入します。セカンドシングルはおもにジョンが手がけた「プリーズ・プリーズ・ミー」で、メロディ・メーカー誌とニュー・ミュージカル・エクスプレス誌でみごと1位を獲得。ここからビートルズの快進撃は続き、出すレコードは必ずと言っていいほど1位になるほどの売れ行きをみせて行きます。

前人未到のワールド・ツアーも大成功に終わり、世界の頂点に上り詰めたビートルズ。しかしコンサート自体は音楽がファンの悲鳴にかき消されるという異常事態になっており、さらに社会現象となったビートルズのコンサートに便乗し、各地でさまざまな事件、暴動も起こるようになり、ジョンはこの状況に常に疑問を持ち続けます。

オノ・ヨーコとの出会いとビートルズ解散

ジョンとヨーコが出会ったのは、1966年11月のこと。当時オノ・ヨーコは、ニューヨークからロンドンへと活動拠点を移したばかりでした。一方、ジョンはというと「ビートルズは今やキリストより有名だ」という彼の発言から始まったビートルズ・バッシングとコンサートのマンネリ化からライブ活動を停止してしまったため、暇をもてあます日々。そのうえ、ビートルズの存在自体が危ういものになりつつあり、ジョンは今後何をするべきなのか、模索する日々でもありました。

友人に日本人女性アーティストのことを紹介されたジョンは、彼女の個展をオープニング前日にも訪れます。ジョン・レノンのことを知らなかったヨーコは、ジョンの前日の来場を歓迎しませんでしたが、彼のウイットに富んだ性格がすぐに気に入り、ジョンもヨーコの作品の暖かさに魅かれ、ふたりはやがて恋人同士に。オノ・ヨーコの登場はビートルズにも大きな影響を与えることになります。

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1967年、「5人目のビートルズ」と呼ばれたマネージャーのエプスタインが急死。まとめ役がいなくなった為、ポールがリーダーシップをとってビートルズの舵取りをしていくことになるのですが、ポールのサイドマン扱いに他のメンバーとポールとの確執は深まるばかりになり、やがてジョンはビートルズでの活動よりもヨーコとの活動に可能性を見出していきます。

1970年、ポールはバンドを法的にも解散させるために、他の3人を告訴。これら一連のできごとにショックを受けたジョンは精神的に不安定になりますが、治療を受けた手応えを名曲「イマジン」に生かし、世間に大きく受け入れられることになります。自身の理想をシニカルに優しく歌ったこの曲をきっかけにして、ヨーコとともにニューヨークへ拠点を移して政治活動に介入。それを快く思わないアメリカ政府からさまざまなバッシングを受けたジョンは、アルコールやドラッグに依存するようになっていきました。

ハウスハズバンド時代と音楽活動の再開、そして

家庭でも荒廃する心を止められないジョンに、ヨーコは別居を言い渡します。ニューヨークからロサンゼルスへ居を移したジョンは次第に自分を取り戻し、音楽活動を再開できたのでした。ジョンはミック・ジャガーやスティーヴィー・ワンダー、ポール・マッカートニーとも再び親交を深めていき、さらにエルトン・ジョンの楽屋でヨーコと再会。彼女とよりを戻すことになります。

1975年、ふたりの間に念願の赤ちゃんが誕生。ジョンはショーンと名づけた子どもが5歳になるまで自分が子育てをすると宣言、音楽活動休止期間に入ります。主夫となったジョンはパンを焼いたり、さまざまな書籍を読みあさり、子どもの教育によいものを生活に取り入れます。ハウス・ハズバンドという言葉を浸透させたのはジョンで、今でいうところのイクメンの走りが彼、ということになりますね。

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「パパはビートルズだったの?」という5歳になったショーンの言葉をきっかけに、ジョンは音楽活動を再開。こうしてできた記念すべき復帰作がヨーコとの共作「ダブル・ファンタジー」でした。新たな作風を手に入れたジョンは、すでに次のアルバムのレコーディングも同時進行させており、これら2枚のアルバムを引っさげてのワールド・ツアーの計画も立てて、復帰に向けて動き出しました。
しかし、その直後の1980年12月8日。狂信的なファンの凶弾に倒れ死亡。40歳の若さでこの世を去ったのでした。

いかがでしたでしょうか?今や伝説の人となったジョン・レノンですが、メガネコレクターとしても有名だった彼のコレクションを再現した「John Lennon(ジョンレノン)アイウェアコレクション」というアイウェアも出ています。よろしければこちらも是非覗いてみて下さいね。

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